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集中講義・課題提示レポート(200412)

戦前教育を復古せよ!〜愛国心教育について〜

九州大学21世紀プログラム二年次在籍

藤原 友貴

 

 

序にかえて

 橋本努先生から、私たちが提出したレポートをホームページ上に掲載したいという申し出がありました。それならば、いい加減なものを記載していただくわけにはいかないと思い、論じ足りない個所を深めたり、訂正をほどこしたりしようと試みました。しかし、いざファイルを開いてみると、どうでしょう。私が作成した文書かどうか疑わしくなるほど、今の私の思想と反する表現が多々見られました。

このレポートは、平成十六年十二月十五日に作成されたものです。先生がお求めになったものは、まさにこのレポートなので、一から訂正するわけにはいきません。甘い評価をしていただきたいわけでも、言い訳がしたいわけでもありませんが、現在の私の意に反する表現があっても、敢えてそのままにしておき、分かりづらい記述を訂正するにとどめました。例えば、今の作者がこのレポートを作成するとしたら、「戦後教育を復古せよ!」という表題はつけず、「戦後教育の可能性」などと記載するでしょう。ですから、「藤原って奴は、十二月十五日はこんなことを思っていやがったのか」という受け取り方をしていただけると幸いです。そのときは確かに「戦後教育を復古せよ!」などと真剣に思っていたわけですから。もし機会が与えられるのでしたら、このレポートに対する批判的考察を行ったレポートを書きたいと思います。

 

 

T 教育の必要性

 今日、テレビや雑誌、あるいは多くの著作の中で、教育について盛んに論じられている。しかし、「そもそも教育はなぜ必要なのだろうか。」この問いに、感覚的に答えるのは容易である。例えば、次のような答えが思いつく。「頭が悪いより、良いほうがいい。」

では、「なぜ頭が良いほうがいいのだろうか。」この問いに対しても、感覚に基づいて答えることができる。すなわち、「頭が良かったら、良い就職ができる。」

ここでも、新たな問いが生まれる。「なぜ、頭が良かったら良い就職ができるのか。」

これらの問いに対して、現代の私たちがしばしばするように、感覚に拠って答えていても、どうやら決着がつかないようだ。

ここは、時代を遡って、上記の問い、すなわち教育の必要性について探りたい。

 

 

U-@ 福沢諭吉『学問のすゝめ』

 明治という時代を理解するには、日本とアメリカとの関係を無視できない。

 1858年、日本とアメリカとの間で、日米修好通商条約が調印締結された。この条約は、アメリカに領事裁判権を認めたこと、日本に関税自主権が無かったことなど、日本にとって不利なものだった。そして、この条約が部分的に改正されたのが1894(明治27)年の日米通商航海条約で、関税自主権を完全回復し、条約改正を完成させたのは1911(明治44)年の日米通商航海条約である。明治時代とは、1868年から1912年のことを指すが、アメリカとの関係から日本を見たとき、明治期における最大の課題は、不平等条約の改正であったと言えよう。

福沢諭吉は、明治期において、日本存亡の危機を感じていたのだろう。日米の上下関係を野放しにしていたら、いずれ日本は滅ぼされるのではないか。そして、アメリカと対等な立場に立つためには、社会を変革するより他無い、と考えていたと思われる。

小泉信三氏によれば、「『学問のすゝめ』は明治五年二月から同九年十一月まで五年間にわたり、時には途絶えつつ出版された前後十七編の小冊子から成る著述であって、明治の人心を刺激啓発して封建的旧物打破の業を成さんとしたもの」である。社会変革にあたって、福沢が最も嫌悪した封建的旧物は、身分制度である。江戸時代に、武士、農民、町人、商人などの階級間を断絶させていたのは、この身分制度であった。

この階級間の区別を明確にしようとする思想は儒教である。儒教では、「君子」と「小人」とを比較して論じている場合がよくある。「君子」と「小人」とは、それぞれ「支配階級」と「被支配階級」を意味する。そして儒教は、「君子(支配者)はいかにあるべきか」を説いた教えである。

江戸幕府が教育の根幹としたのは朱子学、すなわち儒教である。時代は明治に変わったとは言え、人々の考え方が五年間くらいで変わるはずもない。明治初頭人びとは、「人はみな平等である」という考え方など、持ち合わせていなかったはずだ。なぜなら、儒教教育によって、支配階級の振る舞い方と被支配階級の振る舞い方とが、はっきり区別されて教えられていたからである。

そういった時代背景を考えると、『学問のすゝめ』の書き出しは、あまりにも挑戦的であったと言わざるをえない。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」などと、当時の人が考えていたとは到底思えない。

実際世の中には、貴賎貧富の区別があり、その有様は雲泥の差である。それはなぜか。福沢は、つぎのように答える。「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るもの」であり、「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となる」。これが真実か否かは問題ではない。この福沢の考え方によって、人びとが啓蒙された結果、社会のあり方が変わってしまったことが重要なのである。

さらに、福沢は、「身分」という杓子定規を取り払うために、「職分」という考えを打ち出した。身分による社会制度とは、「世襲」である。例えば、将軍家の世襲を考えてみる。世襲制度の下では、将軍など務まらない人間にでも、将軍職に就かなければならない。そんな制度の下では、人びとの能力が存分に発揮される機会は少なく、社会が発展しないばかりか、没落してしまう可能性もある。そこで、個人の能力に見合った職業につくこと、すなわち「職分」によって職業につくことを説いた。故に、農家の子も、武士の子も、商人の子も、平等に教育を受け、能力を発現させられなければならないとした。

福沢は、「生きとし生けるものに対する深い慈愛」という観点から教育の必要性や人の平等について論じたのではない。それは、日本を強国にするという政治的意図があり、社会変革のために教育の必要性を論じたのであった。日本は、江戸時代の封建制を打ち破り、藩閥政治という立憲制を経て、普通選挙が行われる民主主義へと移行した。福沢の思想は、日本の民主化への道を開いたのであった。

 

 

U-A 民主主義と教育

今日では、「民主主義こそ最高の政治形態である」というような感覚が蔓延している。しかし、人類の歴史を見ると、「民主主義は最低の政治形態である」として批判的に見られていた時期の方が長い。

民主主義批判は、古代ギリシャのプラトンにまで遡ることができる。プラトンに言わせると、民主主義においては、愚かな民衆がその場の雰囲気や、口のうまい煽動者に乗せられて、やすやすと衆愚政治に陥ってしまう。実際、アテネの歴史を見ても、そのようなことで失敗したことがしばしばあったではないか、ということだ。

衆愚政治ならまだしも、民主主義は時として独裁者をも登場させる。ユリウス・カエサル、ナポレオン・ボナパルト、アドルフ・ヒトラーなどの独裁者たちは、みな大衆の歓呼に迎えられて登場した。ローマの市民がカエサルを英雄として歓迎したからこそ彼は独裁者となりえたし、ドイツの議会がヒトラーに「独裁権」を与えたからこそ彼は独裁者に任命されたのである。

このように、民主主義は民衆の意向がそのまま反映される分だけに、民衆が愚かであると衆愚政治や独裁政治が生じてしまう。

つまり、民衆には教育が必要なのである。教育こそ民主主義の暴走を止める防波堤なのである。

 

 

V-@ 戦後教育の復古

アメリカ建国の父であるジェファソンは、民主主義による暴走を恐れた。故に、彼は教育の普及にとても熱心だった。1800年のアメリカには、24の大学があったが、60年後には240校もの大学があったという。

ここで、アメリカ式の教育を見てみよう。小室直樹氏によれば、アメリカ式教育の根本は、「国民の育成」にあるという。そして、アメリカに限らず近代教育の柱の一つは、「社会に適合するような人間を作ること」であるのだそうだ。

この考え方によると、日本の教育は堕落していると言わざるをえない。愛国心が重要だと口では言うものの、それを育むカリキュラムが全くない。歴史教育に関しても、日本がいかに陰惨なことをしてきたか、ということを教えて、日本の輝かしい部分は強調されない始末である。歴史教育と歴史研究は違う。歴史教育では、自分達の先祖が作り上げてきたもののありがたさを強調すべきである。歴史研究で、その栄光に隠された真実を明らかにすればよい。陰惨な部分は、愛国的な歴史教育を通して日本人として成長し、十分に成熟してからでも遅くない。現にアメリカでは、自分たちの犯してきた歴史的犯罪行為を扱った研究が、とても盛んである。

また、社会に適応できる人間をつくるという観点も、日本の教育にはすっぽり抜け落ちている。おびただしい知識を詰め込む教育が行われ、受験に通ることという「絶対善」が掲げられている。

今の日本の教育は、昭和二十二年にGHQの意向に基づいて制定された教育基本法を柱としている。しかし、この教育基本法には、「日本」という概念が全く見て取れない。

では、なぜ戦後日本の教育は堕落したのか。それは、GHQの政策でもあった。日本を堕落させることで、アメリカは報復を回避しようとしたのである。

というのも、戦前の日本はアメリカ式教育によって、大成功を収めていた。戦前日本の教育の特徴は、言うまでもなく教育勅語である。教育勅語の中で繰り返し用いられる表現は「臣民」というものである。

封建時代の日本では、「臣」と「民」は分裂していた(U-@参照)。「臣」は儒教の「君子」にあたり、「民」は儒教でいうところの「小人」のことである。しかし、天皇の下の「臣民」という概念を創出することによって、日本国内に一体感を持たせようとしたのだった。

さらに、皇国史観に基づいた歴史教育が行われ、天孫降臨をはじめとする神話が日本史教育の中心に据えられた。

日本が開国から五十年ほどで強国になれたのも、戦前教育を見てみれば納得できる。そしてアメリカが、日本が再び強国になるのを恐れて戦前教育を廃止しようとしたのも当然であろう。

ここで、T章で挙げた問いに一つの解答ができる。教育は、民主主義を機能させるためであり、国を強くするためのものである。

 

 

V-A 大学改革について

大学改革が声高に論じられているが、その大学に入学してくる国民の育成にも目を向けるべきである。その意味で、大学改革は現行の教育システムを全て改革することを視野に入れなければならない。

高校や大学と、義務教育との関係をどのようなシステムにするか。そのヒントは、アメリカ式教育、戦前日本の教育にある。

義務教育時期には、徹底して「日本人」「社会人」の育成を行う。日本の輝かしい歴史を教え、社会制度を現行の教育以上に理解させる。そのためには、今の学校で行われている「知識教育」は、削除される部分も多いだろう。高校入試も、その内容を大幅に変革せざるを得ないだろう。

高校からの教育内容は、徹底して「知識」「教養」を身につけさせる。ナンバースクールを復活させ、二年間で卒業とする。その卒業生は「教養人」たる称号が与えられる。

さらに深い研究を行いたい人は、現行の大学三年次にあたる研究大学に入学する。

 大学改革について私が言及していない部分は、現行のものと同じで良いと考えている。上記の案が、教育の根本と現行の制度との関係を考えた際、最も移行しやすいものであると考える。

 

 

<参考文献>

     福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波文庫、1942

     小室直樹『日本国憲法の問題点』集英社インターナショナル、2002